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宮崎 謙吉
(みやざき けんきち)
嘉永6年(1853)〜大正14年(1925)
嘉永6年(1853)、羽咋郡一ノ宮村(現羽咋市一ノ宮町)、医師宮崎三省の息子として生まれる。
明治2年(1869)5月、加賀藩医の黒川良安に師事。明治3年(1870)2月、金沢医学館(金沢大学医学部の前身)に入学、ペーター・スロイスについて2年あまり、明治6年(1873)10月には大阪府立医学校へ移り、エルメレンスについて医学を学ぶ。
明治11年(1878)帰郷。一ノ宮村の自宅で当時では珍しい西洋医学の治療を行った。
羽咋郡内の医師会長、学校医も務めながら、病理研究や同郡内における種痘の普及、児童のトラホーム(目の病気。伝染性の慢性結膜炎)無料治療などに貢献した。
大正14年(1925)72歳で没した。
| (年号) |
(西暦) |
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(で き ご と) |
| 嘉永6 |
1853 |
9.24 |
羽咋郡一ノ宮村に生まれる |
| 明治2 |
1869 |
5月 |
卯辰山に設立された療養所頭取の加賀藩医黒川良安に入門する |
| 明治3 |
1870 |
2月 |
金沢藩が金沢医学館を創設し、卯辰山療養所から謙吉も移る |
| 明治6 |
1873 |
10月 |
金沢医学館から大阪府立医学校に移る |
| 明治8 |
1875 |
9月 |
大阪府立駆黴院で医師として働き始める |
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11月 |
大阪府立病院を兼務 |
| 明治10 |
1877 |
2月 |
医術開業試験を受け合格 |
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4月 |
能登一ノ宮村へ帰郷 |
| 明治12 |
1879 |
3月 |
父三省と羽咋郡内の種痘の普及に努める |
| 明治14 |
1881 |
4月 |
地方徴兵医員となる |
| 明治16 |
1883 |
7月 |
陸軍軍医松本良順が来羽。謙吉の医院を「戴陽堂」と名付ける |
| 明治17 |
1884 |
3月 |
産婆組合が設置され、講師として無料で産婆の育成を始める |
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7月 |
羽咋郡衛生会が設置され、委員となる |
| 明治18 |
1885 |
2月 |
羽咋郡医師組合会会長となる |
| 明治20 |
1887 |
7月 |
飲料水試験委員会となる |
| 明治32 |
1899 |
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3月・羽咋郡上甘田村立小学校、4月・羽咋郡一ノ宮村立小学校、9月・羽咋郡柳田村立小学校・千路村立小学校の校医となる。児童のトラホーム無料治療を行う |
| 明治42 |
1909 |
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一ノ宮村長となる |
| 明治43 |
1910 |
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羽咋郡会議員となる |
| 大正14 |
1925 |
11.29 |
謙吉死去。享年72歳 |
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