| (年号) |
(西暦) |
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(で き ご と) |
| 明治26 |
1893 |
9.25 |
羽咋郡南大海村字中沼(現高松町中沼)に生まれる |
| 明治33 |
1900 |
4. 1 |
羽咋郡一ノ宮村尋常小学校入学 |
| 明治37 |
1904 |
3.29 |
一ノ宮小学校(4年制)卒業 |
| 明治41 |
1908 |
3.29 |
羽咋高等小学校(4年制)卒業 |
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8月 |
一ノ宮村役場給仕となる |
| 明治42 |
1909 |
4月 |
実業家を夢みて朝鮮馬山浦新同洞へ渡る(16才) |
| 明治44 |
1911 |
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進学を志し帰国 |
| 大正元 |
1912 |
9月 |
京都市京都中学校4年に編入 |
| 大正2 |
1913 |
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岡山県関西(かんぜい)中学校へ転校 |
| 大正5 |
1916 |
5. 4 |
金沢「北陸毎日新聞社(現北国新聞社)」入社 |
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5.21 |
金沢の野村練兵場でアート・スミスの曲芸飛行を取材 |
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10.22 |
飛行家を目指し渡米(23才)。オークランドのデュランド飛行学校入学 |
| 大正7 |
1918 |
4月 |
第一次世界大戦勃発によりアメリカ陸軍航空隊へ志願、約1か年で除隊 |
| 大正9 |
1920 |
1月 |
デュランド飛行学校卒業(26才) |
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クラーク水上飛行学校の助手となる |
| 大正10 |
1921 |
10. 7 |
クーパー高等飛行学校で国際高等ライセンスを得る
このころより「日本人の手による飛行学校創設」を計画 |
| 大正12 |
1923 |
9. 8 |
関東大震災で被災した母国のため、「HELP JAPAN」と横書した愛機で連日自費印刷した救済ビラをロサンゼルス上空に散布し、義援金を日赤を通じて日本へ送金する |
| 大正14 |
1925 |
6月 |
サンタバーバラ大地震おきる――初の取材飛行に成功。このころ「日本航空界を刺激する方法」を考えはじめる |
| 昭和4 |
1929 |
7. 2 |
三大陸横断飛行に飛び立った飛行機仲間の後藤正志が事故死 |
| 昭和5 |
1930 |
4.30 |
三大陸横断飛行を自費で実行すると発表 |
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6.22 |
米・欧・亜三大陸横断による14年ぶりの祖国への訪問飛行を決行、ロサンゼルスを出発<行程 18000キロ・日数 70日> |
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8.31 |
東京立川飛行場に無事着陸(37才)。日本人の意気を世界に吐く |
| 昭和9 |
1934 |
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アメリカでの生活を精算し帰国。航空学校設立に奔走(ほんそう)する |
| 昭和12 |
1937 |
4月 |
衆議院選に立候補するが落選
以後東京に在住、商事会社を営み、戦後はアメリカ在郷軍人であることから、GHQ出入りの御用商人を勤める |
| 昭和28 |
1953 |
4月 |
雑誌『リーダーズダイジェスト』の記事「ウラニウムは人である」に魅せられて日本のウランを捜すことを思いつく |
| 昭和30 |
1955 |
3月 |
小鴨鉱山の人形峠でウラン鉱脈を発見 |
| 昭和32 |
1957 |
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ウラン鉱業株式会社設立 |
| 昭和38 |
1963 |
3月 |
妻寿々発病、翌年死去。遺骨は東京上空よりまく |
| 昭和41 |
1966 |
10月 |
善作発病。三井厚生病院に入院する |
| 昭和42 |
1967 |
10.11 |
74才で死去。妻寿々と共にかほく市の東家の墓に永眠。遺骨の一部は一ノ宮海岸にまかれた。 |